2011年01月19日

まえがき


脱サラ・開業の際(1994年)、自費出版の企画・編纂代行を、事業の柱の一つに考えていた。

私の興味はもちろん、トレンドや社会性にもマッチしている。当時のパートナーが編集の仕事に長けていたこともあった。

「人々の関心がモノからココロへと移り、価値観が多様化した『個』の時代に、自らの証し、自分らしさをデザインする自己表現願望が、現代人の根底にある」。当時書いた企画書の一節である。

その後曲折があり、手を出すことはなかったのだが、考え方は間違っていなかったと思う。

お分かりの通り、パソコンの普及やITの進化によって、自費出版の敷居はぐんと低くなったから、仕事にしなかったことはむしろ賢明だったかもしれない。

当時の思いは、今のエンディングビジネスのアイデアへとつながっている。

●自らの存在(証し)を残す
●自らが主役を務める
●事実を明らかにし、生き方を知ってもらう
●人生の展望台に立つ
●創造する喜びを得る

これらは、自分史作りの意義や効用を列挙したもの。先頃まとめた「生前祭」の事業コンセプトに、そのまま当てはめても少しも不自然ではない。まあ私も真っ当というか、ブレていないのである。

今ではおなじみとなったエンディングノートの一部分は、記入式の自分史に他ならない。

来年50を迎えるに当たり、エッセイを綴ることを決めた。これに付随するものとして、今までの自らの歩みを、それこそエンディングノートさながらにまとめてみようと思う。

この「ノート」はエッセイと対を成している。これら二つを合わせて「50年本」としよう。

タイトルの「キ・ア・ラ」は、自分史ビジネスを起案したときに準備していたブランドネーム。映画「フランチェスコ」(Francesco ミッキー・ローク主演、1989年)からヒントを得た。

フランチェスコ(13世紀・イタリアの聖人)によって信仰の道に入り、終生彼に限りない愛を捧げた聖女キアラの名にあやかったことも、今となっては懐かしい。

2011年1月
原田浩光
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2011年03月09日

01 瞼の母


「内観」のことを初めて知ったのは、確かビジネスホテルにあった冊子を読んだときだったと思う。そのホテルは今や巨大チェーンとなり、スタッフの研修には内観が組み込まれている。そのための自前の施設もあるらしい。

内観とは、狭い空間に何日もじっと座り、ひたすら過去をさかのぼる。忘れていた記憶がよみがえり、最後は親の恩にたどり着くという。

私も少しだけ真似事をして、「瞼の母」を心静かに思い出してみたい。

子供の頃、母はいつでも傍にいた。価値観や物の考え方などは、母からかなりの影響を受けている。顔立ちや体質も母にそっくりだ。自分ではマザコンとも思わないが、そうだと言われれば否定もしないし、男としてそうした感情を持ち得たことは幸福なことだろう。

寝る前に絵本を読んでくれ、子守唄も唄ってくれた。私が眠りに着いた後も、色々なことを話し掛けてくれたかもしれない。そうしたほのかな記憶が、私の意識や性格の一部を形作っているのだろう。

父は仕事一途の人で、家のことは母に任せていた。母は気楽な反面、心細さもあっただろう。私に愚痴をこぼしたりもした。母はたまに胃が差し込むことがあり、痛がる姿が子供心に切なかった。

振り返ってみると、母にとって私は希望の星だったのだろう。

子供の頃の私は、模範生で勉強も運動も良く出来た。母から「勉強しろ」と言われたことは一度もない。私が風呂に入ることを嫌がっても、「垢で死んだ人はいない」。すべてにおいて、こうした大らかさで包んでくれていた。

お調子者で手に負えないときもあっただろう。そんな私を母は泣きながら叱った。

母の人生を改めて思うとき、自分の不甲斐なさをしみじみと感じる。今の私は母の期待に応えていない。そうだろう、己の期待にも応えていないのだから。

内観は、(1)してもらったこと、(2)して返したこと、(3)迷惑をかけたこと、の3つのテーマに沿って行うらしい。

たまに近くまで行ったら、ご機嫌伺いに実家に立ち寄ろう。元気な姿を見せ、与太話をすることで、母が少しでも喜ぶなら。そんなとき、昔と同じ手料理でもてなされては、「してもらったこと」の残高がさらに増えてしまうのだが。

人間なんて人情盗坊(どろぼう)
二親(ふたおや)に捧げられし愛を
一体どうやって返そうか?返そうか?
(エレファントカシマシ「地元の朝」)

これからの私の大きな命題である。残された時間はあまり多くない。
posted by hiro at 23:09| Comment(0) | 自分史 | 更新情報をチェックする

2011年04月06日

02 安全と生きた父


父の「危ない!」という口癖をよく覚えている。

幼い私が、急に走り出したり、階段を一段飛び越えて降りたり。子供なら誰でもやりそうなことである。父は決まって「危ない!」と戒めた。母は(また大袈裟な)とでも言いたげに呆れ顔をしていた……。

どうということのないやりとりだが、父の思い出を振り返るとき、父は「安全」を自らのアイデンティティとして生きてきたのだろう、と思うに至った。

父は、当時誰もがそうであったように仕事一途の人だった。自らも「馬車馬のように働いた」と述懐している。

佐賀県有田町から単身上京し、建築を学び、大手ゼネコンに入社した。数多くの建設現場に従事し、後年は現場の長を務めていた。ちょっとした企業規模の人や金を扱っていたことだろう。家に届く中元や歳暮の多さは半端でなかったもの。

現場は「安全」こそが第一。種々雑多な作業スタッフらに、指示、訓示する労苦は想像に難くない。

「建設工事は、船出の精神で完遂せよ」。工事着工のときの訓示だそうだ。

建設工事は遠洋航海であり、着工の名のもとに出帆し、竣工の名のもとに寄港する。航海中は幾多の嵐に見舞われる。地下工事、躯体工事、仕上工事、およそ3回ほどの嵐を余儀なくされ、これらを克服して工事は完遂する--。

そんな訳で、子供の頃に父と遊んだ記憶は少ないのだが、正月には決まって凧揚げをした。父は近所の子供らから「凧揚げおじさん」と呼ばれていた。自ら図面を引き、木材を工作して自作の凧を作る。飛行機状で、糸は太く丈夫なもの。数キロは飛ばし、凧は小さく霞むほどになった。

製図や工作はお手のものらしい。私にはそうした根気はまるでなく、父の血はどうやら妹が継いだようだ。妹は製図を学び、父と同じ会社に勤めた。社内で良き伴侶も見つけた。兄としては誠に喜ばしく、またありがたく思う次第である。

父は定年で退職した後も、建設や設備の会社から技術顧問として招かれ、知見を与えていた。父の歳の頃を自分の歳と重ね合わせるとき、今さらながら、父のキャリアに尊敬の度合いを増している。

趣味の時間が増えた父は、仏画作りに凝り始めた。これがまた実に精緻極まりない。製図の器用さを持ってすれば、いともたやすいことなのだろうか。

展覧会に出品したり、ウェブサイトで公開したり、新たな交友の輪も広がっているようだ。プロフィールに添えた「仏画を描き始めた経緯」のくだりが振るっている。

「幼い頃から信心深かった上、長く務めた建築の現場は、工事の『安全』への祈りとともにあった。生涯学習の思いから、某講座で仏教絵画の師に学び」、
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2011年05月04日

03 赤面症とポーカーフェイス


自分のことは分からない。有能な占い師でも、自分のことは上手く占えないのだとか。そこで、他人からの証言を手掛かりに、子供の頃を振り返ってみたい。

近年、30余年ぶりに再会した小学校時代の旧友たちは、私のことを「マセていた」「大人びていた」と懐かしがる。本人にはまるで自覚がない。むしろウブで奥手だったでしょう。

「あの頃、『バレンタインデー』なんてなかった。知らなかった」と言うと、「そんなことはない。私○○くんにあげたもん」。(えっ、そうなの。聞くんじゃなかった)

まあ、あのくらいの年頃は、すべてにおいて女子の方がしっかりしている。ただ男子の中にも、夜な夜なラジオの深夜放送を聴いたり、医者の息子で何やら(たぶん受胎のしくみのこと)を得意気にまくし立てたりする「マセガキ」がいた。

当時、私には人知れず気にしていたことがあった。赤面症である。

悟られまいとすればするほど、顔から耳から赤く熱くなってくるのが自分でも分かる。自意識が強過ぎるんでしょうか。

同じクラスのある子とカップル呼ばわりされる。(もちろん実際には何もない。子供のウワサなんてそんなものだ)。これにやたらと反応してしまうんですね。CMで彼女の苗字と同じ商品名が流れるだけで、じんわりと汗ばんでくる。本当に参りました。

そんな訳で、ポーカーフェイスが身についたのも、ごく自然な成り行きだったのだろう。回りにはそれが「大人びて」見えていたのか。

「何を考えているか分からない」。これは長いこと言われ続けている。学生の頃。社会人になっても。今でもたまにある。

ポーカーフェイスの名残りだろうか。難しい顔をして、思索にふけっているように見えるらしい。「どうしたの、恐い顔して」って。こんな顔ですから。

中学、高校では、これでも「硬派」で通っていた。(今の私からすると、信じてもらえないだろうが)。しかし、実際は重い「中二病」を患っている。頭の中は女の子のことだらけですからね。

今の時代とは違い、情報は極めて少ない。肝心なところは黒く墨塗られている。ただただイメージを膨らませるよりない。

今ならインターネットでチョチョイのチョイ。隔世の感があります。どちらが幸せなのかは分からない。

そんな私を、ミステリアスと勘違いして好いてくれる人もいたりする。けれど、そんな神秘性も時が経つにつれて薄れていく。

やがて底が知れて捨てられる訳です。「ああ、この人、何も考えていないんだ」と。
posted by hiro at 23:37| Comment(0) | 自分史 | 更新情報をチェックする